ある陰キャの頭のなか

文字にしてみた!

はじめに

自己紹介します。

 

 

HNは「げんのすけ」と申します。

 

年齢はこの記事の時点で23歳です。

インターネット歴は10年、GREEが最初です。

夢を追ったり逃げたりした結果、あまり稼げる職にはついていません。

感情に沿って愛想よく取り繕うよりも、理屈や道理を伝えるのが本当の優しさだと考える人間です。

 

好きな漫画は「ぼくは麻理のなか」

好きな作曲家は「さユり」です。

 

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このブログは主に

【考えた思考・結論の備忘録】です。

生きる上で、あれはこういう理屈だと認識した、こういう時はああするべきだ、等のことをメモや日記代わりに利用したいと思います。

Twitterで思いついたことを乱雑に発言してしまっているので、それを綺麗にまとめたり隔離したいということもあります。

 

 

面白いかは分かりませんが、「こんなこと思ってる人いるんだ」と考えて頂けたら幸いです。

絵に関する覚え書き

 

【勘違いしていたこと】

 

「絵とは、努力や勉強からかけ離れた特殊なコンテンツだ」

 

→ そんなことは無く、勉強して身に付くもの。

確固たる勉強方法や正解が決まっていないのでそう思ってしまう。

「個性」もその人が積み重ねてきたものの集大成だともいえて、生れ落ちてから元々持っているものではない。

 

 

「ひたすら何も見ずに絵を描き続ければ上手くなっていく」

 

→ 食べず飲まずに運動しろ、みたいな根性論。

下手なことを繰り返して自分で改善点を見つけられればいいが、そもそも他のものを見ていないとそれも分からない。遠回りになりがち。

オナニーを繰り返していることが多くなる。

 

 

「結局は自己満足なので、上手いかどうかも自分で決めることだ」

 

→ 仕事じゃなかったら間違いではない。

しかし、人間の認識は他人との共有でより強くなるもの。

「上手く出来た」と思いたくて描いているのであれば、より強くそう思いやすい方法を目標にするほうが理に適っている。

他人の価値観に合わせることも、自分の価値観の為になる。

 

 

 

【絵の理屈と目標まで】

 

インプット、アウトプットの話。(ググれば出てくる)

 

「絵を描く」という行為は描くものを見て、頭で形作って、それを描き出すということ。

実際には有り得ないものも、実際に見たものを頭の中で混ぜて出来ている。

 

イラストを頭の中で形作ること、描き出すことは、自分の頭の中は自分にしかわからない上に正解が決まっていないので、ミスも間違いだと言わなければ間違いじゃない。

(リアルな絵が描きたいなら間違いは間違い)

なんならそのミスすらも絵の魅力になってしまう。

他人との価値観を合わせる上では大事になってくる。

 

描くものを見ることは鍛えないとどうにもならない。

頑張るところはこれ。何ならそれ自体が上手いかどうかが描くことの価値そのものなのかな、と思ってしまう。

可愛いレイヤーさんを描こうと思っても、霧がかかってたり眩暈がしたら可愛く描けないし、可愛くかけてもそのレイヤーさんの可愛さとは違う。

 

 

【結局なにすればいいか】

 

「デッサン・模写」

分けているが、どっちも手本を真似するということ。

ものを覚えても、本当に覚えているかどうかは行動してみないと分からない。

これはそれをすごい小刻みに繰り返す作業。

この次の段階に「こういうの好きなんだよね」とか「こういうの良いと思わない?」があるのである。

 

 

 まあ分かってても僕は意思ふにゃふにゃでなかなか出来ないんだけどね・・・

 

おわり

 

「幸せ」になる方法を考える記事

前提

○人の世界は視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚・価値観によって作られる。

○人の感覚・価値観は他人との共有でより強いものになる

○他人がどう捉えているかを真に判断することは困難、最終的にはどうしても自分の判断で決まる

○金銭・人脈が優れていることはそれ自体が幸せなのではなく、他人と幸せであるとの認識を共有しやすいので幸せだと思われやすい

○人間には学習能力がある為、同じことを繰り返すと「飽き」がくる

「飽き」と「幸せ」は繋がらない

 

 

・「幸せ」は自分がそうであると思い込めるかどうか

・思い込む為の材料として他人との認識の共有がある

・何か1つの「幸せ」の方法がある訳ではなく、新鮮な感覚の連続が「幸せ」

 

 

「幸せ」になるには

・自分の環境を良いものだと捉える

・環境下の人の価値観を肯定する

・常により良いものに変化していると認識できる行動をし続ける

 

(2018/12/22 時点)

「死にたい」ガイド

 

「死にたい」とは

 

「死にたい」は以下のうちの1つ、または複数の要因に分けられる。

 

・虚無感

(生きる実感がない、何をしても無意味に思える)

・無力感

(自分は劣っている、愛されたくても出来ない)

・挫折感

(失敗して取り返しが付かない、挽回出来ない)

 

そして脳がこの要因を払拭しようと計算するも、

→ 打開策がない

→ 望む結果に至るよりも過程の方が辛い

という結論に至り、「死にたい」となる。

 

 

人が生物として存在している以上、本質的な「死」を望むことは本能的に有り得ない。

 

「死にたい」の「死」は

 

・マイナスの状態の脱却

・あらゆることから縛られない自由への興味や憧れ

 (↑この記事はこれについて考えません)

 

どちらかを意味している。

要はより良く生きたいが為に「死にたい」のである。

 

 

 

ちなみに筆者は

deldeldelusion.hatenablog.com

生きようとすることが盲目的に正しいとは考えていない。

しかしながら死ぬ行動に移せない程度の「死にたい」にあたる状態の場合、本能と噛み合わずに苦しむこととなる為、ポジティブな方向に行動した方が効率的だと考えている。

 

 

具体的な対処方法

 

人間は自覚していない原因を別の記憶に結びつけ、理屈に合わない発想をする場合がある。

(認知の歪み)

まずは冷静に判断出来る状態・体調に出来るだけ近付けることが望ましい。

 

「何も考えず、寝る・食べる・血の巡りを良くすることを徹底する」

 

 

この状態で希死念慮が大きい場合は次に

 「虚無感・無力感・挫折感のいずれに値するか」

を考える。

 

 

 

 

虚無感の場合

 

「何かしらの目標を定め、それに向けて行動をする」

 

自分の納得のいく行動が出来れば良いが、そうでない場合が多い。

以下その場合の発想の一例

→ 人間の個性・思考は環境によって定まるもの

→ どの程度行動できるかはその個人の思考で決まるが、思考自体は環境によるもの

→ 故に行動に移せない、思うようにいかないのは個人の責任だけではない

→ 思いつく、出来るベストをやり続けるしか人は出来ない

→ 今している行動をやめ、別の行動を試し、やり続けられる方法を探す

 

目標が定められない、見つからないこともある。

以下その場合の発想の一例

→ 人間は根本的に生き物なので、生存する以上に生きる意味はない

→ 人類・社会に貢献するかにおいても、大多数がその行為を認識できない=貢献度を確かめられない=意味があるかわからない ことがある

→ 自分のためでも他者のためでも結局判断するのは自分自身である

(感謝の言葉も建前・哀れみ・ありがた迷惑止めの場合があり、相手の真の思考を即時に読み取ることは現代技術では困難)

→ 故に本当に正しいかどうかは自分自身の中にしか存在しない

→ 理屈を考え過ぎず、思いついたことをやり続けるしか出来ない

→ 他人の真似や目に付いたことをやってみる≒目標設定

 

 

 

無力感の場合

 

「比べるのをやめ、自分の状況のみに視点を置いて行動する」

 

比べること=正しいことと思い込んでしまい、困難な場合がある。

以下その場合の発想の一例

→ 比べることは自分の位置、レベルを知るのに欠かせないことである

→ しかしながらモチベーションにマイナスに働いてしまうことがある

→ 行動に繋がらない思考、その場合の比べることは間違いである

→ 自分の能力をある意味諦め、行動し続ける

  またはやりやすい別の目標を探す、娯楽に走る ←逆に近道の場合もある

 

出来る気がせず、行動できない場合がある。

 

①失敗を恐れている

→ 挫折感の場合へ

 

②行動が面倒、億劫 

→ 人間は現在の環境を維持しようとする本能がある

→ その発想は自然なので根本的に悪いことではない

→ 行動までに至れないということは現状に満足している

→ 対処法は行動する・受け入れる・自殺するのみ

 

 

 

挫折感の場合

 

「失敗を自分のための経験だと考える」

または

「自分の個性だと捉える」

 

失敗の許容を怠けや根性なしだと考え、出来ない場合がある。

虚無感・無力感と同じ発想の一例がある。

→ 人間の個性・思考は環境によって定まるもの

→ どの程度行動できるかはその個人の思考で決まるが、思考自体は環境によるもの

→ 故に行動に移せない、思うようにいかないのは個人の責任だけではない

→ 思いつく、出来るベストをやり続けるしか人は出来ない

→ 自分を戒めることは成長に欠かせないことである

→ しかしながらモチベーションにマイナスに働いてしまうことがあり、その場合は戒めることは間違いである

→ 自分の能力をある意味諦め、行動に繋がりやすく捉える

 

 

 

 

それでも希死念慮が大きい場合

 

「愚かだと思う人や行動を認識し、マウントを取る」

 

一時的には効果的だが、以下の問題点がある。

 

・罪悪感から挫折感に繋がりやすい

→ 幼少期の義務教育の影響からその可能性が高い

 

・反社会的、生き辛い社会の一部となる

→ 人間なので本能に嫉妬はあるものだが、互いに足を引っ張り合う社会を作っていくこととなる

 

 

「別の世界で本物の自分が自分を操っているのだと思い、世界をゲーム視する」
「すべて疲れやストレスが溜まっているせいだと自覚する・思い込む 」等

 

あらゆる物事に対応できる万能の方法だが、以下の問題点がある。

 

・論理的、現実的な発想をしないクセがつきやすい

 → 別の問題が発生しやすくなったり、対処に困りやすい

 

認知症統合失調症に近付きやすい

→ ある意味考えることを放棄する方法のため、脳が老化・劣化しやすい

 

 麻薬の様な方法とも考えられる。

 

 

「自殺防止サービス・メンタルクリニック心療内科等の機関を利用する」

 

最終手段の様に見えるが、あまり期待し過ぎてはいけない。

いくらプロともいえど、他人の垣根を越えることは出来ない。

彼らもどうあがいても金銭のやりとりや自分の為に行動をしているという因果から抜け出すことは出来ないからである。

しかしながら、人はある程度の理解者がいるだけでも冷静な判断ができる状態に戻れることがある。

 

 

 

まとめ

 

 

「死にたい」の根本は理想とのギャップなので、開き直りつつ出来ることをするのが一番の対処法。

 

たのしい人生。

 

 

 

人と仲良くなるには

前提として、人に好意を持たれる為にはまず相手にとって信用されることが必要。

 

具体的には

・不快にならない仕草、発言

・「当たり前」の共有

・裏思考を考えない、認識させない

等。

 

 

その上でさらに親睦を深めるには大きく分けて3つある。

 

 

1つ目は「得を与える存在になる」

 

・相手の価値観に合った「良い存在」になる

・相手の知らない知識を披露でき、披露するための経験を積み続ける

・相手が承知・予想していない、相手にメリットのある行動をする(サプライズ)

 

 

2つ目は「自分は似た存在なのだと教える」

 

・相手の印象に残っている経験と似たような経験を話し、近しい存在だと認識させる

・同じ趣味・興味を持ち、話題を共有する

・相手と同じ行動を自然に行う。(ミラーリング)

(具体的には同じタイミングで食べる・飲む等)

 

 

 

3つ目は「相手の心の逃げ場になる」

 

・相手の愚痴を聞き、相手を肯定する

・能力を低く、弱く見せる

 

 

3つのうちどの行動が多かったか・してこなかったかによって相手からの印象・興味が決まる。

 

 

 

ちなみに、人に好意を持たれるとメリットは多いが、そればかりではない。

人は慣れ・飽きをするもの。(そうでないと学習出来ない)

好意を持たれる関係が長いと、その分こちらへの期待・負担が高まり、それによる不満も出てくる。

人によっては好意を忘れ、その不満でこちらにネガティブな行動をしてくる。

人脈は多いとそれなりにメリットはあるが、その分負荷がかかるものなのである。

価値観

価値観とは、五感を通じて得た情報と経験を元に物事の良し悪しを判断する、人それぞれの思考のこと。

 

まったく同じ環境と遺伝子で育てば同じ価値観を持つが、現実ではあり得なく、差がある。

 

人間は環境や言葉の影響を受けるもので(そうでないと共感や学習が出来ず、意思疎通が図れない)、自分と似た存在が幸せそうにしていたら幸せに、辛そうにしていたら辛くなりやすい。

 

周りが幸せそうなら周りに合わせると幸せに思いやすく、そうでないなら自分を貫くと生きやすい。

 

この考えからも、自分が幸せだと認知し続けられる難易度は生まれた家庭の幸福度に左右されやすいと言える。

現代社会

現代社会とは、「助け合い」という暗黙の取引が建前の生存競争。

損得ではないフリをしながら損得により生きている。

 

異論として「無償の優しさ」があるが、「無償」はすなわち見返りを求めないことであり、一概に正しいとは考えづらい。

見返りを考えないと害をなす存在にも助けを与えてしまって生命維持に支障をきたしたり、与える負荷からも人生の最優先事項である「幸せ」から遠ざかりかねないからだ。

 

なぜこの「無償の優しさ」が認識・浸透しているか。

初出は昔の人のそれが存在して欲しいという「妄想」や「宗教」、現代的には多感で記憶に残りやすい子供の頃によく見る・見せられる綺麗過ぎる映像作品が元だと推測。(例.アンパンマン

そして、子供向け作品の中ではほぼ必ずといっていいほど、無償で施した者が何かしら報われている。

現実にはそうとも限らない。

現実では価値観が混濁しているので、「優しさ」の認識が違っていたり、報われるタイミングが死ぬまで来なかったり、施されたことを認識出来ない・しないことがある。

 

故に現実では「無償の優しさ」(見返りを考えているのでおかしくなっている)はハイリスク・ローリターンであり、生きることに余裕なor諦めきっている人の娯楽と考えた方が生きやすい。

 

 

「無償の優しさ」が建前での「助け合い」という概念が社会に浸透しているのは、窮地に陥った時を想定した人間の予防線、一種の生存本能からではないかと思う。

自殺観

①国や社会は働き手不足や死体の処理がある為に否定的だが、それは「使う側」…支配者の視点。

人間はどうしても自分の価値観で判断するしかなく、生きていて存在を肯定されている支配者視点からは「死」はデメリットが目立つから社会では否定的なのではないか。

 

②人間の認識で見える世界は成り立っているので、現実が辛く、何も無い状態の方が楽に思えるならばそれが事実であるのではないか。

 

③「生を全うすること」が生物の存在理由だという視点からは、「自殺」は人間が生きた末の答えで、それが一種の人間的な「生」の表現ではないか。